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前言撤回、いやこれでいい、あ、でも書き直しておけばよかった(的な日常)

連日暑いですね。

先週から始めたこのブログですが、ようやく2回目の更新です。

 

ASKAさんの更新に合わせて書きつづろうと思っていたのですが、仕事があるとやはり記事を読むだけで終わってしまいます。

 

週末は休みなので、書こうと思えばいつでも書けたのですが、キーボードを打つ気になったのは、休みの最後で、ようやく夜の涼しさができたたころとは、自分でも少し情けなく思います。

 

ASKAさんはおそらく仕事をするように、ご自身のブログも書いては、タイミングを見計らってアップされているのでしょう。

いまもなお、続けて下さっていることにファンとしても安堵する気持ちがあります。

 

 

ええ、自分が書きこんだとたんにやめてしまうんではないか?あるいは周囲の方の反対によってやめさせられてしまうんではないか?と少し気をもんでいたのです。

 

いままでの自分の人生でもよくあったんです。いざ買おうと思ったら、すでに売れてしまって残っていなかったり、勇気を振り絞って意見を言ったら、必要以上に反論されたり…。

 

だから、今回もそんな悪い予感がして、書くことさえためらっていました。

気が弱いのか、今日もASKAさんの「無題」という記事の中で、「否定コメントのなかには、何も感じるものがないのもあります。」とありましたが、これなんかも、「自分のことかな~、いや、そんなつもりで書いたわけじゃないのだけれど、響いてもらえてないのかな~」とやきもきしてしまうのです。

 

いろいろ書く前から迷うことだってあるんです。ブログのコメント欄にエリザベス・キューブラー・ロスの「死の受容モデル」のことを書かせてもらいました。

これだって、「死」という縁起の悪い言葉があることに強いためらいを感じました。「悩み」や「葛藤」という言葉に置き換えられないかなとも考えました。でも、勝手に言葉を変えることができない類のものですし、言わんとすることは「受容のプロセス」であって、その先にあるのは「希望」だと感じてもらえるように書いたつもりなんです。でも、やっぱりきつい言葉だよな~って今でも後悔する気持ちはあります。

 

まぁ、ASKAさんがご自身でも、先ほどとおなじ記事の中で、こうもおっしゃっています。「ここでの否定的な意見にも、心に深く響くものがあります。なぜならば、十分予想しての事だからです。世間の総意を代弁してくれています。感謝します。勇気を出してくれて、ありがとう。お返しは、音楽でさせていただきます。」と。

 

そう、「世間の総意の代弁」、これは私も同じ気持ちですし、そう感じることにどういう気持ちの変化が起こるのかということを同じ時代を生きながら、ASKAさんや僕たちが同時に経験していることが本当に面白いと思います。

 

もう一度言います、受容の先には希望があるのだと。