ASKAさんブログ「無題」に対する書き込みコメントについて
本日の記事に以下(罫線の枠内)の内容のコメントを書き込ませていただきました。
「何か意味があるのか!?」
「いま本当に伝えておくべきことなのか!?」
などとおっしゃりたい方もいるかと思います。
が、私は伝えたかったのです。20年間も。
竹林の七賢について、詳しくはネットで検索すれば大体のことが分かります。当時はまだそんな簡単に調べられる時代じゃなかったし、そんなこと言っても(ASKAさんじゃなくても)仕方なかったのですが、今は違う。あえて伝えておくべきだという妙な確信が私にはあります。
が、詳細はまた次回。明日も仕事、今夜はもう寝ます☆
以下が今回の書き込みコメントです!
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あと10日だと思うと、いま伝えておかなければ!と思うことが一つだけ。
ASKAさんとCHAGEさんは中国の三国時代に生きた「竹林の七賢」の「ケイ康(けいこう)」と「阮籍(げんせき)」に似ていると思うのです。私は20年ほど前、この二人の詩文を卒業論文にまとめながら、お二人の姿に勝手に重ねあわせていました。すみません!
でも、二人とも音楽を友とし、老荘思想に傾倒しつつ、理屈っぽいけど直情なケイ康はASKAさんに、自由気ままなようでいて実は手堅い阮籍はCHAGEさんに似ていると、いまもなお思ってしまいます。
全然記事とは関係ない話ですいません。でも七賢人の領袖と言われた彼らの生き方はどこかで参考になるかも知れません。そう願って書き込みました。
もしよろしければ「竹林の七賢」で検索してみて下さいね!
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前言撤回、いやこれでいい、あ、でも書き直しておけばよかった(的な日常)
連日暑いですね。
先週から始めたこのブログですが、ようやく2回目の更新です。
ASKAさんの更新に合わせて書きつづろうと思っていたのですが、仕事があるとやはり記事を読むだけで終わってしまいます。
週末は休みなので、書こうと思えばいつでも書けたのですが、キーボードを打つ気になったのは、休みの最後で、ようやく夜の涼しさができたたころとは、自分でも少し情けなく思います。
ASKAさんはおそらく仕事をするように、ご自身のブログも書いては、タイミングを見計らってアップされているのでしょう。
いまもなお、続けて下さっていることにファンとしても安堵する気持ちがあります。
ええ、自分が書きこんだとたんにやめてしまうんではないか?あるいは周囲の方の反対によってやめさせられてしまうんではないか?と少し気をもんでいたのです。
いままでの自分の人生でもよくあったんです。いざ買おうと思ったら、すでに売れてしまって残っていなかったり、勇気を振り絞って意見を言ったら、必要以上に反論されたり…。
だから、今回もそんな悪い予感がして、書くことさえためらっていました。
気が弱いのか、今日もASKAさんの「無題」という記事の中で、「否定コメントのなかには、何も感じるものがないのもあります。」とありましたが、これなんかも、「自分のことかな~、いや、そんなつもりで書いたわけじゃないのだけれど、響いてもらえてないのかな~」とやきもきしてしまうのです。
いろいろ書く前から迷うことだってあるんです。ブログのコメント欄にエリザベス・キューブラー・ロスの「死の受容モデル」のことを書かせてもらいました。
これだって、「死」という縁起の悪い言葉があることに強いためらいを感じました。「悩み」や「葛藤」という言葉に置き換えられないかなとも考えました。でも、勝手に言葉を変えることができない類のものですし、言わんとすることは「受容のプロセス」であって、その先にあるのは「希望」だと感じてもらえるように書いたつもりなんです。でも、やっぱりきつい言葉だよな~って今でも後悔する気持ちはあります。
まぁ、ASKAさんがご自身でも、先ほどとおなじ記事の中で、こうもおっしゃっています。「ここでの否定的な意見にも、心に深く響くものがあります。なぜならば、十分予想しての事だからです。世間の総意を代弁してくれています。感謝します。勇気を出してくれて、ありがとう。お返しは、音楽でさせていただきます。」と。
そう、「世間の総意の代弁」、これは私も同じ気持ちですし、そう感じることにどういう気持ちの変化が起こるのかということを同じ時代を生きながら、ASKAさんや僕たちが同時に経験していることが本当に面白いと思います。
もう一度言います、受容の先には希望があるのだと。
lossよりさきに心にgainを!
思った通りです。
先ほど「メイリン」と題したASKAさんのブログの新しい投稿を読ませていただきました。
興味深かったのは、その読んだ方々のコメントの内容です。みな一様にメイリンという愛犬や動物一般、またはASKAさんとご家族のことに想いを馳せていらっしゃいました。
当たり前ですね。もう皆さん、本当にすがすがしい顔をしていらっしゃるように、その文字面からですが、感じずにはいられません。ごく簡単にいうなら、愛に溢れていると。
ただ、私が拝読したところ、お一人だけブログの開設と継続に不満な方がいらっしゃるようでした。お気持ちは私にもわかります。
多くの方がすでに「ASKAブログロス」を現時点で心配されているなかで、敢えてその風潮にくぎを刺す人がいても構わないと思います。
でも、いいと思いますよ。意見や気持ちが変わっても。
社会的な害悪が及ばない限り、私もそうですし、ASKAさんやその他の読者の方でも当然構わないことでしょう。
もうブログを見ないと決めた方。それでも見たくなったら見てよいでしょう。
いや、もはや見るなという方が無理なことではないかとさえ思ってしまいます。
むしろ、積極的にブログのASKAさんの言葉に心を開き、素直に受け入れていった方が苦しくはなくなるのではないでしょうか。
こんなこと当事者のASKAさんやその関係者の方じゃ決して言えないことだと思います。利害関係のない第三者だから気軽に言えることだと承知しています。
そして、ASKAさんを神に例えている時点ですでに宗教じみた言説を振りまいている自分自身の俗悪さにも。
信じていたのに裏切られた。嘘で皆を騙した。
いまもなお騙そうとしている、いやすでに騙されているかもしれない。
そんな気持だって私の中にも正直まだあります。
でももう一度信じたいと思う自分が、どうやら私のこころの真ん中にはいるようです。
どなたかもおっしゃっていましたね。クラプトンを例に、立ち直った彼に拍手するのではなく、立ち直ろうとする彼にエールの気持ちを込めて拍手するのだというようなことを。
ASKAさんのブログに行けば、魂が救われるような言葉に出会うことができます。
それはASKAさん本人の言葉のみならず、応援する人・批判するする人の両方から私には感じられるところが面白いのです。
すみません、つまらないオチで・・・
お参りと禊(みそぎ)
潮目っていうのはあるものですね。
私がはじめてコメントしようと思ったのには、それなりの訳があります。
私もTAGofC&Aの会員だったので、元会員として「いいたいこと」の一つや二つはあったのです。
しかし、多くの方が私の言わんとすることを代弁してくださっていました。
そうして、気が済んだというか、あえて自分が言うべきことじゃないなと思ったんですよね。そう、誰か一人でも口にして、ASKAさんに届けばもういいじゃないかと。
このブログは僭越ながらASKAさんブログの副音声というか、「ASKA大社」の参詣道で茶屋を経営するおやじが参拝者を横目に戯言を言っているような体でやっていこうと思います。とりあえずこの夏が終わるまでは。
多くの方が神の前でお祈りや告白をされています。
人間溜めたものは、やはり一度吐き出さないと気持ち悪いんです。
かくいう私も一度コメントさせていただいて、なんだかとってもすっきりした気分です。誰だってそうでしょう。神社や教会に行ってお祈りをするときだって、心の中で皆言葉を唱えていることでしょうが、実際に神の声が聞こえるわけでありません。
でも、ASKAさんのブログに行けば聞こえるのですから、行かない手はないのです。
今朝、ASKAさんがアップした「君の声」という散文詩は、紛れもなく私のようなファンを思って書いた言葉だったのですから、これで精神が浄化しない人がいるというのなら、その人は相当なダメージを負った方なのでしょうね。
私もいまこのブログに書いているような内容は、ASKAさんのブログにコメントしないでおこうと思っています。こんな野暮な解説はご本人にも誰のためにもならないからです。でも、自分の心を整理する意味で、私自身は書きたい、書いておきたいことがあるのです。
参拝帰りについでに冷やかしで覗いてみる感じで結構です。ここに便乗商売させて頂く野蛮をどうかお許しくださいませ。
ASKAさんのブログにはじめてコメントしました!
個人ブログ、久々に開設しました。
ASKAさんと同じ時代をこんなふうに共有できることは幸せです。
いろいろとありましたが、これも定めだというのであれば悪くはないかもしれません。
そういうわけで、初めての投稿は、タイトルにあるようにそのコメントを掲載しておきたいと思います。本文にも書きましたが、決して批判しているわけではないですからね、悪しからず。
私もASKAさんにあやかって一か月限定で頑張ってみようと思います。
どうぞよろしくお願いしますm(__)m
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はじめて書き込みます。
憧れのASKAさんが読んでくれているかもと思うとうれしくなりますね。
1月のブログから、今日までの記事すべて拝読しました。私は40代の男ですが、もう20年以上のファンですからASKAさんの考え方、感じ方よく分かります。
他の方のコメントもでき得る限り読ませて頂きました。私も「批判している」訳ではないけれど、何かもやもやとして言葉にできずにいたことを代弁してくださっている方もいるように思いました。
そう、私も含め多くの方があなたに「やられているまま」なのです。ASKAさんの歌詞には人を惹きつけるものがあります。
「なぜか眠りを許されず 生きることを与えられた(higher ground)」
「運び屋の白い粉袋の秘密で 輝いてるような 輝けないような(夢の番人)」
「手抜かりは掃いて捨てるほど あるいはあったさ それでもここまでくぐり抜けて来たさ(共謀者)」などなど今となってはきわどいものもありました。
けれど、これらの歌詞や楽曲の世界観こそ、当時は苦しい現実に立ち向かう勇気を与えてくれる応援歌のように何度も何度も聞いて励まされていたように思います。
私だけかもしれませんが、ここなんです、辛いのは。きわどい内容だけど、ASKAさんもぎりぎり絶えて踏んばっている、だからこそ信頼できるし、そうした人を励みに自分も頑張ろうとしていたんです。それが今では洒落にもならない・・・。
このブログは何だかキューブロー・ロスという精神科医が唱えた「死の受容モデル」みたいですね。否定や逃避、怒りなどのさまざまな葛藤の段階を経てASKAさんのことを受け入れようとしている自分がいます。
最近の皆さんのコメントを見ていてもそう感じます。おそらく私と同じようにここに禊をしに来るかのような往年のファンが間もなくどっと押し寄せてくることでしょう。みんなが穏やかな気持になれればいいですよね!
私は批判しようとしているわけでも、皮肉を言っているわけでもないのです。
そう、私もASKAさんの素敵な歌声や楽曲をもう一度聞いてみたい一人です。できればCHAGEさんとライブで!素敵なバラードやラブソングがたくさんあることも承知しています。けれど、厳しい現実に立ち向かう勇気を与えてもらえるような、辛いときこそそばに寄り添っていてくれるような曲も(曲こそ?)待っているファンがいることも知っておいてほしいのです!
いまのASKAさんでしか書けない、いや今だからこそ書ける歌詞・曲があると思うんです。このジャンルを何と呼べばいいか分かりません。でも、当のASKAさんが一番ご理解いただけると思います。
いま書くともっとも誤解を受けるかも知れない。でも、私にとってあなたの言葉が一番冴えわたる世界があります。それを為せる言葉をもう一度紡ぎ出してほしいのです。
長文・駄文失礼いたしました。この想い、ASKAさんに届けば何よりの幸せです。